2005年 06月 20日
ニーチェ |
これがニーチェだ
永井 均 / 講談社
人間は言葉を、無意識にそれが含有するポジティブあるいはネガティブな意味のもとに使う。
例えば道徳という言葉がそれだ。道徳的なことは「よいこと」である。
だが、その「道徳=よいこと」を否定した人物がニーチェであろう。
なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対する代表的なひとつの答えは「相互性の原理」の応用である。即ち、「あなた自身や、あなたの愛する人を殺されたらいやでしょ」という回答。
この回答に対する否定として挙げられるのは①「自分には愛している人がいない、自分はいつ死んでもいい」、②「自分や愛する人が殺されるのはいやだが、それはあなたを殺してはいけない理由にはならない」というもの。
前者は、いわば宅間守的な殺人で、社会的なリスクとして常に存在し、認知されているのではなかろうか。それに対しては「人生や愛の楽しさを覚えこませる」更生はありえる。
だが、後者に関しては「相互性の原理」を否定するがゆえに、もはや手立てはない。さらに、②を読んでそこそこ納得できてしまうのは、「相互性の原理」が完全に適応されるわけではないからだ。なぜなら「私」と「あなた」は絶対的に違う個人だから。
(そういえばジャイアニズムも「相互性の原理」を否定してるね。「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」)
だから結局、②的な人間に対して「人を殺してはいけない」と決定的に言い渡すことはできない。「人を殺したら刑罰、場合によっては君も殺されるかもしれないから、それを考慮して行動しなさい」くらいしかいえないのだ。
で、この事例に代表されるように、道徳は究極的には力を持たない。道徳は社会秩序を守るための装置の一つに過ぎない。無意識に人間はその枠にはまっている。同じように、「論理」や「真理」もルールを守らされているのではないか。論理的である必要なんてあるのか?真理なんて存在するのか?そしてそれらに根拠を与える至高価値の「神」は存在するのか?
いや、存在しない。むしろ、先に存在した人間が捏造したにすぎない。
では、そのようなものを取り去ったあとに残るものは何か。ニーチェの言葉を借りればそれは「神は死んだ」あとに残る「力への意志」である。すなわち、道徳的に照らし合わせて正しいことを志向するのではなく、根源的で動物的な「より強い力を」という本能的な意志である。
道徳の否定は、キリスト教的生き方の否定にもつながる。すなわち、来世のために現世を道徳的に生きるのではなく、現世を肯定的に生きる。もっと言えば「来世が現世のように苦しいものであっても、何度でも肯定して生きる」、永遠回帰という考えになる。
ニーチェ的な世界観は、人間の道徳性(例えばキルケゴールが人間は最終的に宗教的実存へと至るといったような)を否定し、ありのままの本能的な生き方を提唱するものだ。これは、特に神が死んだ、アノミーな現代を予言したものかもしれない。
たしかに社会的秩序の維持装置としての「道徳」は必要だ。だが、「道徳的意志>力への意志」によりルサンチマンな感情に支配される「弱者」に自分はなりたくはない。
ニーチェはリアルでシビアな思想だと思う。しかし、なぜか弱気になりそうな時に、自分に活力を与えてくれるから不思議だ。
永井 均 / 講談社
人間は言葉を、無意識にそれが含有するポジティブあるいはネガティブな意味のもとに使う。
例えば道徳という言葉がそれだ。道徳的なことは「よいこと」である。
だが、その「道徳=よいこと」を否定した人物がニーチェであろう。
なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対する代表的なひとつの答えは「相互性の原理」の応用である。即ち、「あなた自身や、あなたの愛する人を殺されたらいやでしょ」という回答。
この回答に対する否定として挙げられるのは①「自分には愛している人がいない、自分はいつ死んでもいい」、②「自分や愛する人が殺されるのはいやだが、それはあなたを殺してはいけない理由にはならない」というもの。
前者は、いわば宅間守的な殺人で、社会的なリスクとして常に存在し、認知されているのではなかろうか。それに対しては「人生や愛の楽しさを覚えこませる」更生はありえる。
だが、後者に関しては「相互性の原理」を否定するがゆえに、もはや手立てはない。さらに、②を読んでそこそこ納得できてしまうのは、「相互性の原理」が完全に適応されるわけではないからだ。なぜなら「私」と「あなた」は絶対的に違う個人だから。
(そういえばジャイアニズムも「相互性の原理」を否定してるね。「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」)
だから結局、②的な人間に対して「人を殺してはいけない」と決定的に言い渡すことはできない。「人を殺したら刑罰、場合によっては君も殺されるかもしれないから、それを考慮して行動しなさい」くらいしかいえないのだ。
で、この事例に代表されるように、道徳は究極的には力を持たない。道徳は社会秩序を守るための装置の一つに過ぎない。無意識に人間はその枠にはまっている。同じように、「論理」や「真理」もルールを守らされているのではないか。論理的である必要なんてあるのか?真理なんて存在するのか?そしてそれらに根拠を与える至高価値の「神」は存在するのか?
いや、存在しない。むしろ、先に存在した人間が捏造したにすぎない。
では、そのようなものを取り去ったあとに残るものは何か。ニーチェの言葉を借りればそれは「神は死んだ」あとに残る「力への意志」である。すなわち、道徳的に照らし合わせて正しいことを志向するのではなく、根源的で動物的な「より強い力を」という本能的な意志である。
道徳の否定は、キリスト教的生き方の否定にもつながる。すなわち、来世のために現世を道徳的に生きるのではなく、現世を肯定的に生きる。もっと言えば「来世が現世のように苦しいものであっても、何度でも肯定して生きる」、永遠回帰という考えになる。
ニーチェ的な世界観は、人間の道徳性(例えばキルケゴールが人間は最終的に宗教的実存へと至るといったような)を否定し、ありのままの本能的な生き方を提唱するものだ。これは、特に神が死んだ、アノミーな現代を予言したものかもしれない。
たしかに社会的秩序の維持装置としての「道徳」は必要だ。だが、「道徳的意志>力への意志」によりルサンチマンな感情に支配される「弱者」に自分はなりたくはない。
ニーチェはリアルでシビアな思想だと思う。しかし、なぜか弱気になりそうな時に、自分に活力を与えてくれるから不思議だ。
by itsuky
| 2005-06-20 00:43
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